2010年1月4日月曜日

レイオフ

 そもそも全く経営経験がない私が、なぜ会社を設立することに至ったのかについて簡単に説明しておきましょう。

2002年7月29日(月)
 当時、私はある外資系ソフトウェア企業の日本支社に勤めていました。勘の良い方ならすぐ推測できるかと思いますが、その企業はNASDAQに上場しており、GNU/Linuxシステムに代表されるオープンソースソフトウェアを開発していました。そこで、私は、組み込みシステム向けのコンパイラや組み込みLinuxと呼ばれるソフトウェアの日本でのサポートを担当していました。
 その日、私はいつもと同じように朝9時に出社しました。すると、社内の雰囲気がいつもと違うことに気がつきました。一番で社長と面談した社員に聞くとどうやら7月31日付けで大規模なレイオフが実施される、つまり解雇されるとのこと。当時、会社はITバブルの崩壊により売上が上がらず、株価も停滞し、CEOはウォール街で投資家への説明に奔走していました。一方では、新しく生まれた組み込みLinuxの競合他社が新規顧客を開拓しており、売上の大幅な拡大が見込めない状況でした。そこで、ついに本社が組み込み関連の事業を縮小する決断を下したようです。
 ついに私の順番が回ってきましたが、同僚に聞いた話の通りで、もめることもなくあっという間に終わりました。レイオフは外資系企業では当たり前のことであり、私も数々の同僚がレイオフされるのを何も出来無いまま見守ってきましたので、ついに自分の番が来たかという感じでした。昨年、日本でも外資系で有名なITの巨大企業のリストラが話題になりましたが、そもそも終身雇用を約束しているわけではないのでもめるほうがおかしいのではないかと思います。日本企業に勤めるサラリーマンよりも高い報酬をもらっているのですから、会社から要らないと言われたら、他を探すのがルールではないでしょうか。その後、身の回りの片付けを行い、会社に残る上司たちや同僚と最後の昼食を共にした後、秋葉原のオフィスをあとにしました。

2002年8月x日
 私はちょうど一ヶ月前に結婚式をあげたばかりで新婚旅行にもまだ行っていなかったため、大手商社に勤めていた妻もさぞや驚いたことでしょう。解雇予告手当が30日分支給され、雇用保険から手当が6ヶ月間受給できるとのことで、しばらくのんびりしようかと考えました。しかし、のんびりする間もなくすぐに競合他社や他の会社からお誘いがきましたので、まだまだいけるかなとも思いました。今、振り返ると、この時の各社からのお誘いが背中を押したのかもしれません。
 そうこうしているうちに会社から雇用保険の手続きに必要な書類が届き、生まれて初めてハローワークに行きました。ハローワークによると求職活動中に就職や独立しても未給付の手当があれば額は減るが給付されるとのことです。そこで、「まだ若いから就職する前に一度独立してみよう!」と思い立ちました。一度は社長業というのをやってみたかったのです。

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